2014.04.0623:26
ネクロフィリアの誘因
こんにちは。nexaです。
『国際疾病分類第10版』(ICD10)は、ネクロフィリアを「F65.8 他の性嗜好障害」に含め、性嗜好障害の一種であるとしています。ネクロフィリアを病気や障害であると見なすことには賛否あるでしょう(私もどちらかと言えば反対です)が、とりあえずこの通説に従うことにして話を進めましょう。
ネクロフィリアは性同一性障害などに比べればかなり少ないので、研究の進んでいない分野です。私がこのブログを始めたのも、死体愛者の内観を記録することは心理学・精神医学の研究にも役立つだろうと思ったことも理由の一つです。
フロイト派心理学では、幼少時に見た眠っている母親の姿に愛情を感じ、それが欲情へと変化したのがネクロフィリアであると主張しています。しかしこれは実際の「症例」から帰納されたものとは言いにくく、ほとんど空想にすぎません。フロイトの理論は科学に必須の反証可能性を欠く傾向にあります。
私は以前死体愛は先天的なもの、しかも多くの人が本能的に抱くものであるという説をこのブログに書きました。しかし、だとすればネクロフィリアの実例が少ないのは理屈に合いません。死体愛が本能的なもので、先天的なネクロフィリアも多くいるとしても、他にもなんらかの誘因があると考えるべきでしょう。
この記事はとても参考になります。ちょっと長いですが、後半部分を引用します。
思い返してみればネクロフィリア的な思考法はしてましたしていたと思います。皆さんが欧米のネクロフィリアに抱いているようなイメージとは異なってしまうのが申し訳ないですけれど、それを踏まえるとどうして私が腐乱死体はダメだけど死体に恋焦がれてしまうのかということの理解の一助になると思います。
私は高校一年の時に物凄く好きでもう自分の中で神格化されてしまうくらい惚れ込んでいた先輩がいるんですよ。もう完全無欠のド直球で大好きだったんですね。いやでもホントに神にしか見えなかったんですよ。後光とか日輪とか背負ってるとしか思えない輝きで。
だけどまぁ、色々と私が愚かだったせいでその恋は成就しなかったんですよ。
それについて話すと長くなるので詳細は割愛させていただきますが、もう未だにその人好きなんですよ。思い出して泣くこともあるくらい好きなんですよ。
進学先も分かっていたけど追いかけはしませんでした。二歳離れていた上にその人の進学先は過疎ってる感じの県の短大だったので。
忘れよう忘れようって関東の大学に来たんですけど、無理でして。なんとか心にぽっかりと空いた穴を埋めてくれる人を大学二年まで血眼で探していたんですけど、大学三年になる前に無理だって気が付いたんですよ。
神のオーラを纏っている人なんかどこにもいないんです。広い大学とはいえ、そんな人いないんですよ。代わりにするのは神のオーラがない人達にも失礼っちゃ失礼ですし、何よりも私が愛したあの人に失礼なんですよね。
そのことに気が付いた時にあの人はもう死んだのだと思い込もう、という思考が働いたんですよ。もうどうせこの先何年と生きていても再会することなどないでしょうし、私も十六歳の時からすればだいぶ変わってしまいました。
でもそれでもあの人を忘れられない。
あの人は私の過ちを赦してくれることはないだろう。
そう考えた時、私の脳裏にあの人の死体が浮かんだんですよ。
死体!
死体は私を拒絶しない! 死体なら私を覚えているかも許さないかも関係ない!
死体が、そう死体になったあの人だけが私を受け入れてくれる!
愛そう、愛そう、あの人の死体を。
それだけしか私の心の虚無を埋められるものはない!
……そういう思考が完成していた時に「おまえはネクロフィリアなんだな」と認識を分かりやすい形に先生が歪めてくれたので、スッ、と自然に私=ネクロフィリアという図式が私の中で完成したのです。
この記事を読んだとき、私は驚きました。
詳しくは人のプライバシーに関わるので書けませんが、この方の後半の理由に近い理由でネクロフィリアになった人を他にも知っています。
その人は5年ほど前、十代の終わりごろ、一人の女性に恋をしたそうです。ところがその女性は思わせぶりな態度を取り、夢中になった彼を馬鹿にして去って行ったそうです。彼は苦しみ、自殺未遂をし、精神を病んで倒れました。彼は病床の中で、自分を慰めようとその女性とセックスする空想をしようとしたところ、空想の中でまでも拒絶され、余計に苦しくなったと言います。ところが、「もし彼女が死んだら」と考えてみたところ、死体は抵抗をしないので苦しまずに空想に浸れたと言います。それから今に至るまで、彼は毎日朝から晩までずっとその女性の死体とセックスする想像ばかりして過ごしているそうです。今でも彼は精神を病んではいるようですが、少しずつ回復し、勤め先を見つけ、この4月にやっと社会復帰できたそうです。
さて、先ほどの記事をRTしたところ、こんな反応を得ました。
こうした事例が複数ある以上、やはりこうした理由でネクロフィリアになることはありえることだと言えるでしょう。もしかしたらですが、「寝ている母」説を押しのけて心理学の新しい定説になるかもしれません。
追記
この記事を公開した後、ツイッター上で、対人恐怖との関係を述べるツイートを見て、一つ重要なことを書き落としていることに気づきました。
対人恐怖(自尊心の弱さ)から抵抗しない相手への欲望が生じるという説はすでにあるようです。おそらくネクロフィリアの発現において、対人恐怖が誘因になることは疑いようがありません。しかし、この記事で述べた事例は、一人の相手への叶わない強烈な恋愛感情一つでネクロフィリアが発現しうることを示しています。おそらくこれ一つで対人恐怖と同等以上の効果を持つでしょう。
ネクロフィリアの発現にはかなり多種の誘因があると考えられます。強力な誘因はそれ一つで人をネクロフィリアにし、弱い誘因はいくつか複合して人をネクロフィリアにすると考えられます。そして一人の相手への叶わない強烈な恋愛感情は、従来指摘されてこなかったにもかかわらずかなり大きな誘因であると、nexaは考えるわけです。
『国際疾病分類第10版』(ICD10)は、ネクロフィリアを「F65.8 他の性嗜好障害」に含め、性嗜好障害の一種であるとしています。ネクロフィリアを病気や障害であると見なすことには賛否あるでしょう(私もどちらかと言えば反対です)が、とりあえずこの通説に従うことにして話を進めましょう。
ネクロフィリアは性同一性障害などに比べればかなり少ないので、研究の進んでいない分野です。私がこのブログを始めたのも、死体愛者の内観を記録することは心理学・精神医学の研究にも役立つだろうと思ったことも理由の一つです。
フロイト派心理学では、幼少時に見た眠っている母親の姿に愛情を感じ、それが欲情へと変化したのがネクロフィリアであると主張しています。しかしこれは実際の「症例」から帰納されたものとは言いにくく、ほとんど空想にすぎません。フロイトの理論は科学に必須の反証可能性を欠く傾向にあります。
私は以前死体愛は先天的なもの、しかも多くの人が本能的に抱くものであるという説をこのブログに書きました。しかし、だとすればネクロフィリアの実例が少ないのは理屈に合いません。死体愛が本能的なもので、先天的なネクロフィリアも多くいるとしても、他にもなんらかの誘因があると考えるべきでしょう。
ネクロフィリアになったきっかけなどはありますか?生まれつきでしょうか? - necro_chan - ザ・インタビューズ #theinterviews http://t.co/KBjhmBdeXV @theinterviewsjpさんから
— 誰にでもラブラブする汚いメス猫(すみ) (@d0cub0) 2014, 4月 6
この記事はとても参考になります。ちょっと長いですが、後半部分を引用します。
思い返してみればネクロフィリア的な思考法はしてましたしていたと思います。皆さんが欧米のネクロフィリアに抱いているようなイメージとは異なってしまうのが申し訳ないですけれど、それを踏まえるとどうして私が腐乱死体はダメだけど死体に恋焦がれてしまうのかということの理解の一助になると思います。
私は高校一年の時に物凄く好きでもう自分の中で神格化されてしまうくらい惚れ込んでいた先輩がいるんですよ。もう完全無欠のド直球で大好きだったんですね。いやでもホントに神にしか見えなかったんですよ。後光とか日輪とか背負ってるとしか思えない輝きで。
だけどまぁ、色々と私が愚かだったせいでその恋は成就しなかったんですよ。
それについて話すと長くなるので詳細は割愛させていただきますが、もう未だにその人好きなんですよ。思い出して泣くこともあるくらい好きなんですよ。
進学先も分かっていたけど追いかけはしませんでした。二歳離れていた上にその人の進学先は過疎ってる感じの県の短大だったので。
忘れよう忘れようって関東の大学に来たんですけど、無理でして。なんとか心にぽっかりと空いた穴を埋めてくれる人を大学二年まで血眼で探していたんですけど、大学三年になる前に無理だって気が付いたんですよ。
神のオーラを纏っている人なんかどこにもいないんです。広い大学とはいえ、そんな人いないんですよ。代わりにするのは神のオーラがない人達にも失礼っちゃ失礼ですし、何よりも私が愛したあの人に失礼なんですよね。
そのことに気が付いた時にあの人はもう死んだのだと思い込もう、という思考が働いたんですよ。もうどうせこの先何年と生きていても再会することなどないでしょうし、私も十六歳の時からすればだいぶ変わってしまいました。
でもそれでもあの人を忘れられない。
あの人は私の過ちを赦してくれることはないだろう。
そう考えた時、私の脳裏にあの人の死体が浮かんだんですよ。
死体!
死体は私を拒絶しない! 死体なら私を覚えているかも許さないかも関係ない!
死体が、そう死体になったあの人だけが私を受け入れてくれる!
愛そう、愛そう、あの人の死体を。
それだけしか私の心の虚無を埋められるものはない!
……そういう思考が完成していた時に「おまえはネクロフィリアなんだな」と認識を分かりやすい形に先生が歪めてくれたので、スッ、と自然に私=ネクロフィリアという図式が私の中で完成したのです。
この記事を読んだとき、私は驚きました。
詳しくは人のプライバシーに関わるので書けませんが、この方の後半の理由に近い理由でネクロフィリアになった人を他にも知っています。
その人は5年ほど前、十代の終わりごろ、一人の女性に恋をしたそうです。ところがその女性は思わせぶりな態度を取り、夢中になった彼を馬鹿にして去って行ったそうです。彼は苦しみ、自殺未遂をし、精神を病んで倒れました。彼は病床の中で、自分を慰めようとその女性とセックスする空想をしようとしたところ、空想の中でまでも拒絶され、余計に苦しくなったと言います。ところが、「もし彼女が死んだら」と考えてみたところ、死体は抵抗をしないので苦しまずに空想に浸れたと言います。それから今に至るまで、彼は毎日朝から晩までずっとその女性の死体とセックスする想像ばかりして過ごしているそうです。今でも彼は精神を病んではいるようですが、少しずつ回復し、勤め先を見つけ、この4月にやっと社会復帰できたそうです。
さて、先ほどの記事をRTしたところ、こんな反応を得ました。
これ、少し分かるなぁ…。
— 琉A(りゅーあ) (@_ryuua_) 2014, 4月 6
こうした事例が複数ある以上、やはりこうした理由でネクロフィリアになることはありえることだと言えるでしょう。もしかしたらですが、「寝ている母」説を押しのけて心理学の新しい定説になるかもしれません。
追記
この記事を公開した後、ツイッター上で、対人恐怖との関係を述べるツイートを見て、一つ重要なことを書き落としていることに気づきました。
対人恐怖(自尊心の弱さ)から抵抗しない相手への欲望が生じるという説はすでにあるようです。おそらくネクロフィリアの発現において、対人恐怖が誘因になることは疑いようがありません。しかし、この記事で述べた事例は、一人の相手への叶わない強烈な恋愛感情一つでネクロフィリアが発現しうることを示しています。おそらくこれ一つで対人恐怖と同等以上の効果を持つでしょう。
ネクロフィリアの発現にはかなり多種の誘因があると考えられます。強力な誘因はそれ一つで人をネクロフィリアにし、弱い誘因はいくつか複合して人をネクロフィリアにすると考えられます。そして一人の相手への叶わない強烈な恋愛感情は、従来指摘されてこなかったにもかかわらずかなり大きな誘因であると、nexaは考えるわけです。