2ntブログ
2016.10.0121:57

ネクロフィリアと性的多様性と人権について

こんにちは。nexaです。今回はいつもの性的ファンタジーはありません。

ここ最近インターネット上で大きく2つの出来事があり、混乱と狂騒の様相を呈しています。その1つはLGBTをペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアといった他の性的少数派と同等に扱うことの可否に関する議論です。もう1つは人々が自分の気に入らない性的表現を嫌がらせや脅迫によってやめさせようとする行為の可否に関する議論です。それに人種差別や性差別など種々の問題が絡んで事態を紛糾させています。これらの問題について少しでも冷静で建設的な議論がなされることを祈り、私のネクロフィリアに関する基本的な考え方を述べておきます。具体的な個々の事例については述べず、概念的に述べようと思います。そのほうが却ってあらゆる個別の問題に適応できると思うのです。

その前に私nexaが何者であるかについて述べておきます。私が管理するTwitterの@necro_lifeのアカウントはもともと(今でも)、poza(@sex_poza)のパロディとして始めたものです。中高生に対して生中出しを推奨するという内容と、それにもかかわらず一見性教育的な内容を述べているかのような口調の落差のおかしみから、一時期、多くのパロディアカウントが生まれました。その1つが@necro_lifeです。未成年の中出しを推奨することをパロディ化するためにそれよりもさらにいっそう問題のある行動は何か考えれば、屍姦に考え至るのは当然でした。いささか露悪的であるという誹りは免れませんが、もとよりパロディなのですから元ネタより穏健でありえようわけがありません。私がかねてから愛好する屍姦ネタをbotに放り込み、また屍姦についての情報を集めているうちに、だんだんと屍姦愛好仲間とのつながりもできてきて、屍姦にまつわる創作物や情報を載せるためにこのブログを始めるに至りました。

さて、始めに最も抽象的な問題として正義について述べておきましょう。法的正義はある一時代において普遍であることを旨とします。法律用語でいう「法の下の平等」です。実際の運用上そうであるかはさておき、理念的にはそうなのです。それに対して倫理的正義は相対的です。各個人の信条は異なるのです。しかしながら、ある時代、ある文化の中では各個人の信条は比較的均質です。かつてキリスト教社会では同性愛は悪であるとする信条が共有されていました。今ではむしろ同性愛者への迫害こそ悪であるという信条が共有されています。厳密に言えば、外れ値的な信条を持つ人はいます。しかし少数派です。かつてのキリスト教社会でも同性愛を擁護する人はいましたし、今でも同性愛を迫害しようとする人もいます。極端な外れ値を持つ信条を持つ人はいても、全体としてあるまとまった偏りを成します。すなわち、その時代の思潮というものが存在するのです。法的正義と倫理的正義とが類似し、しばしば混同されさえするのはこのゆえです。各個人の信条が異なる以上、「自分の気に入らないこと」と、法的あるいは思潮としての不正義を先験的に同一視することは不可能です。

かつて同性愛は倫理的に悪であるとされ、今ではそうではないとされます。いずれ屍姦もそうなるかもしれません。スウェーデンでは屍姦を合法化すべきという政治活動が実際にあるのです。しかし、同性愛の解放を、「人類が普遍的真理に気付いたのだ」と素朴に信じるべきではありません。時代・社会・文化を超越した普遍的正義はありません。といっても、それゆえに現代の思潮を蔑ろにしてよいという意味ではありません。むしろ逆です。人類が社会の終わりのない向上を目指す終わりのない努力の、現代という一時代における最も尊ぶべき結実の1つが同性愛の尊重なのです。

次に、もう少し具象的な問題として、屍姦とその他のセクシュアリティの政治的関係について述べたいと思います。@necro_lifeの内容や、このブログの内容について、その内容が死んでいる女性と生きている男性という組み合わせが主であることから、「LGBTを蔑ろにしている」さらには「ミソジニー的である」という誤解が時に生じるようです。しかし、死んでいる女性と生きている男性という組み合わせを好むのは私個人の性的好みに過ぎないのです。私nexaをネクロフィリアの代表、旗手であるように扱っていただけるのは身に余る光栄ではあるのですが、実際に身に余るので困るのです。私はネクロフィリアの代表ではありません。無限の可能性を持つ屍姦という大海の一滴に過ぎないのです。

屍姦の前には性的指向や性自認、さらには性別や人種の差別は無意味です。性的嗜好の極北とされる屍姦のどこに、同性愛や両性愛を拒絶する理由があるでしょうか。屍姦が極北であれば、ペドフィリア、ズーフィリアでさえまだ「南」なのです。屍姦は常に全ての人に開かれています。屍姦がシスジェンダー異性愛男性の独占物であるという主張を私はしないどころか、積極的に反対します。私の愛読書であるフランスの小説Le Nécrophileの著者である偉大な文学者Gabrielle Wittkopは同性愛者の女性でしたし、その主人公Lucienは死体性愛両性愛者の男性です。屍姦文化に浴するならば、同性愛・両性愛というものがそこにどれだけ芳醇さを注いだかを常に思わないではいられないのは至当です。

先に北、南の比喩を用いましたが、これは本当は望ましい比喩ではないかもしれません。なぜならば、全ての性的なありようは順位づけをせず等しく尊重されるべきものであるからです。もちろん、法的・倫理的正義の中で、許されようがない性的行為というものは存在します。幼児との性交はその一例です。死体との性交は、少なくとも日本の現行法においては合法であるという判例(昭和23年(れ)584号)がありますが、多くの人の信条はこれを認めないでしょう。性的快楽を得るための殺人はその最たるものです。しかし、人間の想像力の中に留まるときは、あらゆる性的幻想は等しく尊いということを私は主張したいと思います。創作物や空想の中で幼児と性交をし、人を殺してその死体と性交をする・・・といったことは決して悪いことではなく、むしろ多くの異性愛者や同性愛者が恋愛をすることや無性愛者が恋愛をしないことと等しく尊く、尊重されるべきものであると考えます。

しかし、このような考え方は多くの人に共有されているわけではないようです。LGBTをネクロフィリアを含む他の性的少数派と同等に扱うことでLGBTを誹謗できると考えた人も、これに対してその同一視は不当であると主張する人も、やはりLGBTとペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアのような存在との間には階級差があると見なしているのでしょう。しかしそれはPZNという三等市民の上にLGBTという二等市民があり、その上にシスジェンダー異性愛という一等市民があるという素朴ではある世界観に繋がっています。全ての性的ありようは虹のスペクトラムのように切れ目なく繋がっているものであり、我々は性的ありようによらずお互いを平等な一人の人間として尊重しなければなりません。

しかしこれはやはり理想論であり、現実には、ヘゲモニーを手にしている者はこれによって他者より有利であろうとするものです。そしてそれは必ずしも責められたものではありません。かつては異性愛がヘゲモニーを有して唯一の正当な性のありかたとして君臨していました。今や同性愛や両性愛やトランスジェンダーはその仲間入りをするに至りました。しかし彼らは旧市民にとってはいまだに白い目で見るべき成り上がりの新市民なのでしょう。彼らは常に不当な攻撃に晒されかねない苦境にあるのです。それでも、彼らが我々を受け入れられなくても、私は彼らが我々を受け入れられないことを受け入れられるようでありたいと思います。全ての人が自分の信条を他人に無理に押し付けず、少しずつ譲り合い許し合えますように。
プロフィール

necrolife

Author:necrolife
@necro_lifeの中の人が死体愛を語るブログです。

ツイッターではファンタジーなフィクションで死体愛を語っていますが、ブログでは中の人のちょっぴりリアルな素顔も見せちゃいます。幻想を壊されたくない方はご注意を。

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